僕とJazzと芦屋ルナホール
LUNAhall
当時(1972year)僕は芦屋ルナホールの北へ歩いて7分の所に自宅・事務所「RosemarieInstitute」がありました。 1970年春、芦屋市に芦屋ルナホール竣工、キャパシティーは舞台設定 により違いますが900席程度が最大だと思います、市民ホールという特性上市民のピアノの発表会とか演劇の発 表会を想定して企画されたと思います、当時の芦屋市の公共建築物はル・コルビュジエの弟子、坂倉準三氏の坂倉建築研究所のが数件あり その流れで坂倉建築研究所が市民ホールの設計を受注したと思います。しかし設計の山﨑泰孝氏はとてつもない企画案を提出されました、 通常の発表会用のスタイルの他に3方を開放した舞台設定、また後席も設定した古代ギリシャの円形劇場をモチーフした360度客席スタイル、 後日、氏が設計したCASAMIAashiyaマンション自宅にて話を聞き季刊トランソニックの全体劇場特集からインスパイアされたとおっしゃってました。 僕は高校の頃、シルヴィーバルタンやアニマルズ、スパイダーズなど神戸国際会館公演を見ています。客席は客席から舞台を見上げる感じです。 芦屋ルナホールはプレイヤーと客席が一体化できるのが特徴でした、竣工当時としてはルナホールは日本より世界で注目されました。 外観も内装もコンクリート打放しで客席はブラック、ホールの基本カラーはダークグレーとブラックとトランスルーセントで 構成されています。 お稽古の晴れ舞台としての会場としては華やかさはありませんので、芦屋市民には批判もあったようです。 コンクリート打放し建築といえば安藤忠雄氏が有名ですが、芦屋ルナホールの竣工時には 安藤忠雄氏はまだ世間的には知られていませんでした、 安藤忠雄氏の出世作「住吉の長屋」が1976年です。僕的にはモダンでソリッドといえば山﨑泰孝氏です。 客席は背が低い黒の客席。 余計な色は非常出口の緑のサインだけ(僕はこの非常口のサインも演奏中は電気を落としました。今ではできないでしょう。) これで舞台と客席が一体化するのです。このステージでマッチするのは何か?JAZZです。
nemu jazz in 19720722
19720722 伊勢の賢島にヤマハのリゾート「合歓の郷」という広大な施設がありました、アメリカのニューポートジャズフェスを 模してジャズフェスティバルを開催していました、合歓の郷で行われていた「NEMUJAZZINN」というイベントです。 日本楽器神戸店も「NEMUJAZZINN」1泊2日ツアーバス1台を運行していて、僕も添乗員として参加していました。 当日チックコリアが来日していて夜中に彼が演奏している時大雨が降ってきてそれでも中止せず、フロッグインザレインとかを演奏して 会場が盛り上がったことを覚えています。この野外ライブイベントがのちの斑尾ニューポートジャズフェスや鯉沼氏プロデュースの 田園コロシアムのライブアンダーザスカイに通じていたと思います。広大なスケールの「合歓の郷」は閉所され2023年の状況は ネムリゾートとアマネムの2つのリゾート施設と日本楽器社長川上源一監修 NEMU GOLF CLUB 及び温浴施設(KIYORA)になっています。
Mccoy Tyner Quartet
僕とJAZZイベントの関わりは、東京のAImusic社長鯉沼氏との関わりが大きいです。マッコイタイナー来日公演の関西ツアーの打診 が日本楽器神戸店にありました、当時日本楽器神戸店契約社員だった僕はマッコイタイナー公演(1972/10/30)の開催に至ります。 当時の神戸の音楽公演は神戸国際会館と神戸文化ホールの2つの会場が主でした。 両ホールともキャパが1500以上あります。それを一杯にできるアーティストが優先されます。 JAZZで言えば渡邊貞夫さんを中心とした数バンドの公演が主でした。営業サイドから見ればそれが順当でしょう。 マッコイタイナーの公演で何人ぐらい来るかが検討され1000人が大阪神戸で集められるのがやっとでしょう。その程度では興行会社は行わないでしょう。 招聘元のAImusicが関東中心の会社だったので銀座ヤマハのレコード部から打診があったと思います。 当時日本楽器は高級オーディオ(anpB1 C1 spNS1000)を開発販売し始めた頃で宣伝の意味を込めて公演をやる決断になりました、僕が担当しAImusic社長の鯉沼氏と交渉 芦屋ルナホール公演が決定、キャパは900程度満員でもトントンの状態でした。 僕はカスタマー目線から芦屋ルナホールでマッコイタイナー公演したい、という思いでした。結果は早々にチケットは売り切れ、マッコイも、 日本に来て今日が1番乗ったと言っています。
Ann Burton
マッコイタイナー公演1972/10/30でAImusic社長の鯉沼さんと個人的に話をするようになり、翌年1973年春にアン・バートンが来日することになっており、
日本楽器神戸店で公演依頼を受けましたが、アン・バートンはヴォーカリストですので日本楽器神戸店は難しいことになりました、鯉沼さんはアン・バートン
関西公演には苦慮していて大阪では千里のショーレストラン「オスカー」のみでした。
アン・バートンはアルバム「ブルーバートン」が有名で、録音バックバンドがルイス・ヴァン・ダイクトリオが加わっています。日本ではルイス・ヴァン・ダイクトリオ
が来日メンバーではないことがコンサート開催のネックになっていたようでした。僕はヴォーカルは好きで引き受けることにしました、
関西のホールコンサートは僕のところだけだったと思います。僕の好きな芦屋ルナホールは日程がなく、キャパが大きい神戸国際会館でやることになりました。そのため価格を安く設定し、
jazzファンだけではなくポピュラーファンにもアプローチしました。ラジオ関西のパーソナリティー小山乃里子氏がアン・バートンを気に入っており番組で頻繁に
アン・バートンをかけておられました、後援当日のMCも引き受けていただき感謝しておます。また地元のタウン誌「神戸っこ」の人たちにもニュース
に取り上げていただいたりで公演は満員になりました。
1973/3/13 日経新聞夕刊、河塚記者の公演感想がまとをえていたので転載します。
「オランダのジャズボーカル、アン・バートンの魅惑に満ちた声がすばらしかった。ビリー・ホリディのレパートリーやキャロル・キングの曲を多く取り入れたプログラムだが、
七日の神戸国際会館のホールでも九、十日の千里オスカーのようなクラブでもそのとけ込みぶりのうまさは並の”外国人”ではないことを証明してくれた。
オランダも日本も”英語圏”からすれば外国なのだが、その外国で歌う人、聴く人がジャズボーカルという土俵で不自然さがなく理解し合えたことは大きいといわねばなるまい。
日本人にとって最も身近な手本をその唱法やフィーリングに見ることができたわけである。」
Kimiko Kasai
1974年鯉沼氏から当時USAにいた笠井紀美子の帰国記念コンサートの打診がありました。僕は笠井紀美子が結構好きでやりたかったのですが、 日本楽器神戸はアンバートンでも同じですが女性ヴォーカル主催は難しい状況でした、よって僕個人事務所RosemarieInstituteが引き受けました。 LUNAhallでマッコイタイナーで出来なかった360度円形舞台での公演を実施することにいたしました、笠井紀美子は後ろにも客席があって非常に面白がっていました。 芦屋という場所はJAZZの盛んだった甲南大学から電車と徒歩で25分、関西学院から40分、神戸大学からも同じ程度でしたから、この3大学の生協だけで200枚程度捌けました。 前売¥1800とリーズナブルな値段でした。当時マクドナルドのアルバイトは1h¥200程度でした。 関西の大学だけで600は売れたと思います。 当日のステージ写真は月刊神戸っ子の藤原君に頼んで撮影していただきました。コンサート当日、新大阪駅までメンバー達を迎えに行き、遅い昼食を芦屋川下流 芦屋国際ローンテニスクラブの川向いののフランス料理店「サンパレス」(40年ほど前に閉店しています。)ので紀美子・シダーウォルトン・サムジョーンズ・ビリーヒギンズ とハーフコースを食しました。jazzコンサートはいずれも大成功の満員御礼で終了しました。
笠井紀美子は1980年LAに拠点を移し活動されていましたが同時にARTJEWELRYに興味を持ち、 1986年4月「アメリカGIAジュエリーデザイン科」を卒業。ジュエリーデザイナーに華麗なる転身をされ 1990/03/02東京青山スパイラルホールにてJEWELRY EXHIBITION by KIMIKO KASAIを開催されています。jazz Others
その後芦屋ルナホールで19750923ケニードリュー&デクスターゴードン(jazzspotTRIOオーナー有田氏主催主催)、を開催。 またキースジャレットもAImusicの鯉沼さんが初招聘され、キースジャレットは1974年当時アメリカンカルテットというチームを結成しておりメンバーはチャーリーヘイデンb・ポールモチアンdsと saxのデューイレッドマンで構成されていました。鯉沼氏はこの”アメリカンカルテット”としてキースジャレットを開催されました。 キースジャレットは1970年代初頭から日本でも通の間で有名になりその後100公演以上日本で公演されています。この公演は僕のスケジュールの都合で開催しませんでした。大阪サンケイホールで鑑賞しました。 1973年当時、神戸のjazzspotのkneekneeの米田さんはアルバム"solo-concerts""expectations"を推奨されています。